画家 齋藤芽生の日記


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変奏曲の魔力

変奏曲の魔力_e0066861_655580.jpg


油画科の大学院は、人の気配の少ない郊外の校舎に研究室があった。
今でもそこで勤務しているのだが、私が学生の頃そこに流れていたのは、特別な時間だったような気がする。
密閉された療養所空間か何かに隔離されて外界に降るみぞれを見ているような、淡い日々。


とにかく淡々と日々が過ぎて行った。
特に言葉数も多くないが、空気で気心が知れているような同級生達との制作空間。
毎日同じ挨拶から一日が始まり、似たような会話で終るとわかっていても、それを敢えて細やかに繰り返す日常。
何の事件もなく、何の成就もなく、何の破綻もなく、卒業を黙って待つ日々の砂のような密度だけがある。


変奏曲のような日々だった。




変奏曲。永遠に終わりそうもない反復のうちに感情装飾がほんの少しずつずれを作って行く。
けれど、いつか曲が終ったときに残るものは、不意に反復が途絶えたことへの、ふしぎな喪失感である。
壮大な交響曲のあとの終了感とも、エレジーの悲哀とも、ぜんぜん違う。



何故かその頃の同級生や先輩が必ず持っていてよく掛けているCDに、
グレン・グールドの弾く『ゴールドベルク変奏曲』と、マイケル・ナイマンとがあった。
グールドの『ゴールドベルク変奏曲』と言えばクラシックを聴く人なら好き嫌いに関わらず絶対知っている一枚だろう。
さして有名曲でもなかった、バッハの中でも地味なチェンバロ曲、しかも華やかさがなく表現し難い「変奏曲」を、若き天才ピアニストグールドは何故かわざわざデビュー盤に選んだ。
奇矯な行動や発言、演奏とともに大声で鼻歌を歌ってしまう奏法、極限まで低く設定したピアノ椅子が彼を有名にしただけではなく、その記念すべき最初の盤からして、バッハを、いや音楽というものを、このように解釈しこのように表現することが出来るのかと言う驚きで永遠に聴衆を茫然とさせることのできる、名盤中の怪盤である。



みんなが聴いている音楽はあえて聴かない傾向がありがちな私だったが、初めてこれを聴いたとき、今迄使っていなかった私の内部の機械が物凄い勢いで稼働しだしたのを覚えている。


現代音楽のナイマンにはかぶれることはついぞなかったが、ナイマンにせよゴールドベルク変奏曲にせよ、淡々とした反復という共通性を持っている。
もっとも、グールドはそれをとても単調とは言えないあの不思議に狂った機械感覚の魔力でひくのだが。


ああ、この繰り返し、と深く感じ入った。
延々とした主題とバリエーションの増殖、微妙な差異の中に凝縮された細部たちの物語、漂白したような無地の空間に描かれた細密の表現部位を透かし見たときにはじめて見えてくる、型。骨組み。
自分の作品にこの感覚が出せたらな....と遠く憧れたものだ。
装飾と非情との一見無意味な組み合わせが反復されるとき初めて透視できる透き通った本質。そぎ落とされた企図。



私は中学生までへたくそなヴァイオリンを弾いていた。なので、大学にも持って行ってよくひいていた。
講義室にぼろピアノがあったので、ピアノが弾ける人はそれをひいて、合わせたりした。
かわいそうにあの頃の私は、ひけるはずもないツィゴイネルワイゼンとか憧れのチャルダーシュとかの譜面まで買ってきたっけな。
その譜面の中にヴィターリの『シャコンヌ』も入っていた。
『シャコンヌ』と言えばバッハの無伴奏パルティータの中のシャコンヌをよく聴くだろうが、私はピアノ伴奏のあるヴィターリのシャコンヌの方が好きだ。
シャコンヌというのは、古い舞踊の一形式をさすのだと言う。
同時にヴィターリのそれは、短い最初の主題が淡々と、なにかにのめりこむように内省的に繰り返されて行く変奏曲でもある。
触りの部分だけピアノのひける後輩と合わせてみたりしたが、半音がいっぱいの転調部分がどうしてもひけなくて、とても全曲はひけなかった。



当時持っていたのはロシアのナタン・ミルシテインの奏でる『シャコンヌ』だった。これも何回きいたかわからない。
ゴールドベルクよりも、もっともっと自分の内面に近く、日常の「うつむき」とともにある、告げられなかった恋愛の記憶とともにもある、切ない曲である。
また、ピアノが良い。ヴァイオリンの主旋律よりももっとストイックに感情を秘めつつ、そろりそろりと激情から後ずさりする痛みのように、追いつ追われつ、主題部を繰り返す。







静かな内面の変奏曲がヴィターリのシャコンヌなら、気持ちを高揚させる変奏曲は(というより旋律の繰り返しが昂って行く)ラヴェルの『ボレロ』が好きだ。
部屋を真暗にしてヘッドホンで大音量にしてよく聴いていた。


あまりにも有名なので、好きとか嫌いとかの域を超えているのかもしれないが、私はかつて、この曲を自分たちの物語として解釈しきってしまった、`84サラエボ五輪アイススケートのディーン・トービル組のアイスダンスを見てしまって以来、『ボレロ』はもう特別な曲として記憶の中に刻み込まれたのだ。
全員の審査員が戦慄の満場満点....というようなことの驚愕では全然ない。
短い時間の中で、簡潔な動きと絶妙のシンクロニシティで組み合わされて行く一連の動き。
表情も感情も全く出さず、ゆっくりと、初めはむしろ機械仕掛けの人形のように。
最後には人間の運命の因果のようなもの、縺れた糸にそれでも微笑する大人のにがさ。
そんなものをガキの私でも不思議に感じてしまったのだ。
それを見ていた時も確か、「変奏曲」のもつ心憎いストイックな潜在美に、感心したように思う。





今はもっと上手くてアクロバティックなアイススケーターは沢山いて、毎冬凄いとは思うんだけど、あのディーン・トービル組ほど感動したことは何故かない。
凄いシンプルなのに!
これを見て何も感じない人もいるかもしれないが、そういう人はきっと日常でも激辛食品のような刺激的なものにだけ反応するんだろうな....
でも見て、この微妙、この完璧。この男女の緊張、この迷宮感覚。


「表現」する、とはこのことだ、と今改めて思わされる。
by meo-flowerless | 2010-12-01 02:58 |