画家 齋藤芽生の日記


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軽井沢

軽井沢_e0066861_11112256.jpg

二日に及ぶ展示作業を終え、開日の朝は、私と曽谷さん*にとって束の間の休息。温泉、旧軽井沢の街並、見どころは沢山ある。が、私は美術館へ向かう車中からふと脇目にいくつかの廃墟を発見してしまった。そうなるともう、騒いだ血が静まることはない。あそこへいこう!と曽谷さんを巻き込む。





廃墟に対する動体視力、いや崩体視力とでも言うべきものは、自分でも呆れるほど早い。オカルト・ホラー的な廃墟の捉え方というのは全く共感できないし、安全靴ヘルメットまで重装備して廃墟に入り込む探検家にもなる気はないが、旅に出るとまず眼が探すのはやはり廃墟である。

美術館から一番近い温泉施設かなにかの廃墟へさっそく曽谷さんと繰り出す。
途中、不思議にしんとした美しい沼や渓流がある。
使われていない自動販売機が青白く色褪せ、クリスト作品のように縄で縛られつつ立っている。
施設廃墟は閉ざされていて中には入れなかったが、激しい通り雨に見舞われたため、「廃園」軽井沢の雨景を眺めつつしばし雨宿り。
「デイリークイーン」と書かれたなんだか目的のわからぬ小さい施設の廃入口に見とれる。

いつまでも降り止まぬので、雨の中美術館に走って戻った。
こういう山地の容赦ない雨に降られてびしょぬれになるのは何年ぶりだろう。
緑の水。血が透明になるのがわかる。
オープニングパーティーの前だというのに髪も何もかも水浸しになった。

軽井沢。
二、三日いただけでは決してその全貌はわからない。
余りにも有名な地名、各種レジャー施設も揃い、完全に人の手でいじられ尽くされた土地だが、ただ「俗」なだけの観光地とはやはりどこか一線を画している。
冬は寒さ厳しく、それが適度な隔絶感をこの土地に与えているらしい。
どんなにレジャー施設があっても、やはり山の怖さのようなものが常に漂っている。
観光地としてはもはや最盛期はではない。
そうなりはじめると、観光地は、凄みのある「孤高のオーラ」を出し始める。

少しでもアーティストを自称したい人は、まあたいてい「辰ちゃん漬け」の店や修学旅行生のメッカとなるような俗な観光地を軽蔑する。観光地化されすぎた場所というのは確かに何の面白みもなく、そしてその裏には様々な破壊が隠匿されている。
しかし。
私は、俗な観光地も好きだ。
ただし「それが廃れてゆく有様の圧巻」において、だ。
その土地に生きる人にとっては物凄く勝手極まりないことを言っているのは解っている。

十数年前に流行ったレジャー施設や建造物が今は見るも恥ずかしい異物として、鼻をつままれ、目を背けられ、古くさいデザインのまま、草のつるに蔓延られて放置されている。
私はそういうものたちが死ぬほど好きである。
デザインというものの本質的な裸の美しさがむき出しになるのは、実はその最・流通期ではなく、雑草と土に汚れて朽ちてゆくときではないか。

私は、まさに「今」「大多数の人」、が愛しているものは大嫌いである。
それが偏見といわれようが過激な意見といわれようが、嫌いだ。小型室内犬も六本木もだいきらいだ。しかしそれが見るも無惨に廃れ、忘れられた頃になったら、話は違ってくるだろう。
その時まで、六本木もプチ洋犬も、心の漬物石置いてゆっくり漬けておくことにする。

人間関係でも相手にべたべたされ始めると私は即刻逃げだす。
ちやほやべたべた、という愛は私にとってはうそっぱちである。
ちやほやされる目線に慣れきって、べたついた愛情に溺れきった者が、ふとそれらの視線が実は冷たくどこも笑ってなどいないということに、ようやく気付き始めるとき。
その先こそ、その者の真価が問われ発揮される時だろう。

誰からも省みられないボロの、ボロならではの誇りが愛しい。
投げ出された命ない人形の末路みたいな「崩れ」が恋しい。
好きなことわざは『武士は食わねど高楊枝』とか『腐っても鯛』。
ただしその武士や鯛がまた大勢で愚痴を言いつつツルみ始めたら何の魅力もないが。

モノでも、積極的に「リサイクル」とか「再利用」したがる人たちの手間垢がつくと、その孤高オーラは失われる。
観光地だってそうだ。
孤高のまま放っておくのがいいのだ。
そしてその孤高性が放つ凄まじい沈黙の光を、こちらも黙って目撃するのだ。

この間行った那須別荘地の似たような風景と比べると(那須も凄く好きだが)、やはり「軽井沢」という美しい地名のオーラなのか、崩れぬ「レジャー神聖性」のようなものが木々の間にこだましつづけている。
温泉とかスキー場とかの目的意識だけでくくることのできない土地の奥行きに、詩情を感じる。

しかしその詩情は、溌剌としたものではなく、やはり倦怠い詩情である。
奥深い別荘の森、変わりやすい繊細な天気、束の間だけ洒落て眩しい光の夏。テニスコート。優雅である。
が、何処か、爛れている。
この爛れの匂いは幼い頃「軽井沢」の地名を聴いたときから微妙に感じていて、今初めてこの地に立つとはっきりそれを再認識させられるものだった。
爛れの複雑な薫りは、私の中の激しい作品欲を掻きたてる。

いいよ、軽井沢。ここで見た風景はいつか絵に化けるだろう。



*曽谷さん=曽谷朝絵。二人展で一緒に出品している作家。
by meo-flowerless | 2005-10-10 11:19 |