画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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奈落と虚空

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奈落、あるいは虚空。それが私の帰る場所だ。
格好いいからこれらの言葉が好きだ、というだけじゃない。


ぽっかりとあいた場所。



人生に一度、原風景を一枚だけ描いて死ねと言われたら、あんな奈落と虚空を描く。
それが私の心の地形そのままの情景だからだ。


あの奈落と虚空に流れる時間は、深夜から未明に掛けてと、鈍い金色の午後四時頃の二種類しかない。
日常の中でも、この時間帯にのみ時々私は、本当の意味での「素」に帰る。


十四五歳のときにははっきり、奈落、虚空という言葉を日記の中に頻繁に使っていた。
だからそれよりもっと早い時期にその言葉を知り、自分の何かをうまく言い当てる言葉と感じていたのだろう。


何のために生きてるのかというと、厳密に言えば、最終的には絵が好きだからでも愛する人達のためでもない。
私を生かそうとし殺そうとするあの奈落と虚空の情景があるからだ。



その情景がなんなのか何処なのか、ひたすら知りたいがために文を走り書きのように書き連ねてきた。
絵の中でもあの情景の空気を吸おうとし、そしてまだ絵にあの空気感を描けたことはない。
おまけにあの空気の静かな悲哀の中を生きる人しか、私は愛せない。
私の遥か遠く先を歩こうとする背、その背と空虚な曇天との組み合わせ。


意味や形容ばかりを目で追いすぎると、それは、あれではなくなってしまう。
あれは現実の体験から強烈に身体に刷り込まれている何かだ。概念や目的として身にまとったただの言葉なんかじゃない。


成功のあとの高揚や落胆、大失恋、仕事の疲労、絶え間ない忘却、他人との接触の洪水。
劇的な日常の心の動きがどんなにあろうが私はそんな動揺のあとに、やはりあの場所にいつも帰ってしまう。
途方に暮れる真白真黒の透明の中で、ふと霊肉の孤独を取り戻す。


笑っていてもあれを思い出して戦慄する。
煩わしい悩みを忘れるため、あんな空隙の情景の夢を見ていつしか眠りにつく。
絵の向こうにも、恋の向こうにも、あの奈落と虚空が見えていなかったことはない。
あの場所が終生の私の伴侶でもある。


あれは何処だろう。あれはなんなんだ。
こちらにおいで、と土の奥底から私を呼びながら、一歩のところで私をはねつけ我に帰らせる死か。
あ、私は生きている、と一瞬時全身全霊で思い知らされることの、焦燥とも安堵とも悲哀とも付かぬ、あのかきむしられる感じ。
とにかく、普段は能天気に忘れている「生と死の連絡通路」がブラックホールのように目前に穿たれるのだ。
恐いのだ。でも懐かしい。揺らがされるし、停止させられる。


あれはそもそもは実在の場所ではないとは思うのだが、
それでもいくつかの実際の場所に訪れたとき、突然あの生と死の連絡通路を感じ、前触れもなく震えたことがある。



絶叫したいほどにかきむしられる。



小学五年、自死の祖父の遺品を黙々と伯父が投げ捨てていた穴。その骨壺を大分の山奥から広島迄運ぶ車中、午前四時頃の山口県山中のパーキングエリア。
実家の裏手の山林の落葉の海。大人の「禁じられた遊び」の残滓。
三宅島、真夏剥き出しの、人ひとりいない坂。火山灰に埋め尽くされた小学校の残骸を横目に、友がサンダルをわざと長く引きずって歩いたその音。
重たい曇天が割れ、金色の光線が関東平野に差したと同時に流れ出した、佐野厄除大師脇の写真屋のスカボローフェア。
長崎は平戸、海の果てを望む旅館、眠れないくらい強い水仙の花瓶の香り。晒のように新しい白の布団。
人の少ない海、田舎の湾の対岸の山中を、夜、車のヘッドライトが現れたり消えたりしながら昇ってゆくのを遠く見ているとき。
北熊本駅付近、何処からも裏側であるような、広大な荒地と川。
奈良春日大社の夜、手探りの深い闇の合間に、時折現れる水銀灯の無言。
猿沢池付近の林にぽつぽつと、バンガローのように一軒一軒離れている料亭の個室群。
銚子の青い白昼から帰還する成田線、携帯音楽の『化石の荒野』で目覚めたときの車窓の西日。
牛深、崩落危険区域の路地の側溝。
釜石観音、観光ピークをを過ぎ眠るままの、土産商店街。
墓石捨場のピラミッドが放置されている、小諸の林の奈落。
利根川に開け放されたこのアトリエの夜の窓から真夜中不意につめたい沼気が流れ込んでくるとき。そして翌朝の不穏な金色の光の中で、対岸の我孫子警察署の拡声器放送が、深夜の事件の目撃者を探しているのを聴くとき。



他人にとってはどうでもいいような情景が、私にとっては劇的なのは何故だろう。
by meo-flowerless | 2010-11-03 05:54 |