画家 齋藤芽生の日記


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2017年10月の日記

2017年10月の日記



10月2日

ラジオ深夜便に前川清が出演。【噂の女】の歌い方は、森進一から触発されて自分の歌い方を目指したということ。プレスリーのブルースから影響受けたこと。桑田佳祐が【そして神戸】が好きということ。成る程、と思う。新曲【嘘よ】は加山雄三作であり、それこそ、桑田佳祐にもありそうな曲調。また桑田の【現代東京奇譚】あたりは、前川清が歌っても生まれ変わっていいだろう、と思った。




10月4日

夜中、ラジオからの音楽で目覚める。眠っていても心の琴線に触れると、目が覚めるのだ。
曲はニニ・ロッソのトランペットで、【知床旅情】。学生時代にした旅のあてどなさが怒濤のように蘇ってきて、胸が苦しくなる。ニニ・ロッソとか60-70年代の映画音楽をよく聴いていて、その頃の旅の記憶と結びついているのだ。絵を描く気持を支えていたのは、あの頃の、ああいう漂流感だったな。実際に漂流や放浪していたわけではないが、いい意味で途方に暮れていた頃だ。
次にかかった曲も好きな【マドンナの宝石】。トランペットは意識を揺蕩わせる。昼間の日常活動より、夜の夢うつつのなかの方が、よほど広くあてどなく漂流できてる。
二回続けてラジオ深夜便のことを書くなんてさ。ハイ・ファイ・セットの【燃える秋】までかかる。あの頃よく歌っていた曲。


:::


届いた歌集、浜田到【架橋】を寝床で開き、濃密な予感に、何故か一度本を閉じる。
戦後、中井英夫などに評価受けながらも、一冊の歌集も刊行されることなく早く亡くなり、死後の昭和44年たった一冊この【架橋】が出版された。知る人ぞ知る、歌人であり詩人であるらしい。


酷薄な花の秩序にしたがひて喪きひと開くなほ一日を
ふと山が姿を消してあゆむ時に從へり獣らと夜の家族と
死にし母に下半身無しそれからの椅子に吾の坐睡ふかまる
この町に敗けてゆくにあらざれど鶏頭がしきりに朱かりにけり
〈たえず良心が夢を喰荒すのです〉…枯野のうへを漂ふ一行
もう死にはてたあなたに蛍いろはすこし地味かもしれぬ
塵芥ひとつだになき国にいてわれら識りしは落日の美か


:::


眠れなくなって腹へる。弁当の白飯のはしっこに肉炒めの汁が少し滲みているようなとこが、妙に食べたい。


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「ドゥームニゴールデンチップス」というアッサムティーが、度肝ぬくほど旨い。蜂蜜を溶かしたような甘い匂い。紅茶とはこんな飲物だったとは知らなかった。
お香は沈香寿山。秋の贅沢をするぞ。



10月6日


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朝5時、終わった。疲れた。つかれた。



10月8日

お香。春はみのり苑の白檀か、鬼頭天薫堂の鎌倉五山。初夏は唐招提寺の鑑真香、興福寺の興福薫荷。夏は鬼頭天薫堂の由比ヶ浜か雪の下。秋は高野山大師堂の蓮華、高野槇。冬は日本香堂の沈香寿山か淡路梅薫堂の慈悲甘茶香。

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味覚が鋭すぎて濃い味付けや香り強い野菜が楽しめず、淡白な味を好み、好き嫌いの多い人には、「スーパーテイスター(特殊な味蕾を舌に持つ人)」の可能性があるのだ、と正木君が言っていた。
そういう人こそ、利き酒や利き茶が向いているのだろう。私には「スーパーテイスター」の可能性はほぼない。口に入るものは大体、「うまい」と言って飲み込んでしまう。
しかしそんな私も紅茶の茶葉の味を覚えたくて、わざわざ買い、比べてみた。
...ニルギリ、紅茶の味がした。ヌワラエリヤ、紅茶の味がした。ルフナ、紅茶の味がした…
というほど酷い鈍感さでもないが、紅茶を楽しむなんてのは、それに付随する千差万別な世界の高級オヤツも味わい分けるような階級のひとのものなのだ、と身にしみてかんじた。匂いはかなり嗅ぎ分けるのに、味覚は雑だな。


:::

遠い夜の総武線、挽歌、川の河口。というなにかの記憶の印象が、ずっと自分を支え続けている。

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雪村いづみ【遥かなる山の呼び声】素晴らしい。良い歌唱だなあ。
紅茶試飲し過ぎで全く眠れない夜。


10月9日

終点駅にラーメンを食べに行ったついでに、散策。霊園に続く山峡の住宅地は静かに秋の日が射していた。道の真ん中に大きなカマキリが何匹も睨みをきかせているが、こっちはもっとデカくて鈍感なものでつい踏みそうになる。
清流の側、いつかこの辺に仕事場を確保してみたい。


列車高架と街道の間の古い路地を歩く。女郎蜘蛛の金色の蜘蛛の巣がススキの穂にアーチのように掛かっている。
山下りの子供達が道に沢蟹を見つけ騒いでいる。ここにも川があるのか?高架自体が年季がはいって物々しいが、ふと煉瓦の小型トンネルに行き当たり、その佇まいにびっくりする。くぐりぬけたら戦前の世界に行きそうな。

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二軒のすたれかかった家のしげみの向こうには、結構な水量の清流があった。光といい、緑といい、桃源郷的だ。ひとりの中学生が釣り糸を垂らしている。その裏手にはかなり古い廃屋の、旅館らしき屋敷が見える。この旅館は中央本線に乗るときに車窓から見え、気になっていた場所だ。月の形のくり抜き障子、複雑な二重の玄関屋根の構え。その隣家のモルタルの大きな屋敷も不思議な雰囲気だ。
滝から振り返って高架の橋を見ると、時代ががった素晴らしい景色だった。

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橋は両界橋、旅館は花屋旅館と言ったそうで、江戸時代からの宿だったそうだ。中里介山の【大菩薩峠】にも出てくるのだそうだ。

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10月10日


自分には、本というものは読むためだけのものではない。文字を読んだり文脈を理解するためだけのものではない。
ある重りを持ち歩くためのものであり、その重りとは、本の中にしか含むことのできないふしぎな時空間の質量のことなのである。
その重量は情報量に従って重くなる辞書の重量とは違う。持ち歩く時空間に浮揚力が有るのならそれは、身体を浮かせて運ぶ翼のような波のような軽やかさにかわる。


よく描写された人間風景や人間模様の多様な物語を往来するから手応えがあるのかというと違う。もっと曖昧に漠然と行間に感じる、生と死を行き来出来る道があるから引きずりこまれる。その重力、動力、浮力、遊力だ。いい本を手にすると、読み込むというよりはとにかくしきりに閉じたり開いたり、カバンから気まぐれに出して表紙を撫でたり、縦横無尽の順で文字間を泳ぎたくなる。明滅して死んだり生きたりする気にもなるし、他人にもなる。塵にもなる。



浜田到の歌集もそのようなものになりそうだ。かつて寺山修司の本には惹かれてもその感はしなかった。
「生とは衝動の裏を通つて / 岬へゆくひそかな道 / 多彩の蔭の /きよらかな零落/ (略) だから あなたは /あなたを通つて往け /あなたの廃園/その深い湖/火のまぶしい惑はしや/くらいよみがへりの梢を/つたはつてゆけ」


そしてまた旅というのも、単純な土地の移動のことを指すものではない。同じようになにか、本の中で遊びまわる生死の回路やふしぎな密度の重りを、とにかく「持っている」と感じる時点で、それが電車内であろうが会議の机の下であろうが、私には旅である。



10月12日

今日はぼんやりしていた。なくし物をしそうだ、と勘がして、帰りの列車でなんべんも自分に「この描きかけの絵をなくしたらもう個展には間に合わないぞ」「かりに車内に忘れただけでも今夜の仕事は進まないぞ」と言い聞かせていたにも関わらず、家の玄関で既に…手にカルトンは無かった。
電話を掛けたが、JR遺失物係にもスーパーマーケットにも無い。最後に乗ったバスの記憶は微塵もなかったが、多分そこなので、行ったり来たりしているバスを追いかけて駅で待ち伏せ、自分の乗っていた車体の運転手さんから無事に引き渡して貰った。
帰ったら、夫が物凄く怖い顔をしている。「荷物から離れたら警報が鳴る装置を買え」と言われたので、そうすることにする。


10月13日

記憶の隙間にスっと蘇る「いつどこで聴いたかわからないイージーリスニング」曲たち。口ずさめるし時代の空気に胸がツンとするのに、それを聴いた地点にはたどり着けない。ああいう曲の「記憶のされ方の儚さ」が好きだ。しかしラジオでやっていた「あの」曲がジョージ・ウィンストンの【あこがれ】であり、箱根の森彫刻美術館の曲だとハッキリ言ったのを聴いたときは流石に、痒いところに手の届いた爽快感があったな。
解らない曲を口ずさんで人に題名を聞きたいときに限って口ずさむことが妙に恥ずかしいのはなんでなんだ。カラオケじゃあんなに歌うのに。

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最近試している和紅茶の美味しいものは、非常に爽快感があり、頭がシャキッとする。
が、またさらに手を出した雲南紅茶の旨さは、また違い、透明感があるのにボワッと多幸感に包まれる。北条さんという人が開いているネット店のものだが、物凄い目利き味利きなのだろう。樹から葉からたっぷり栄養をもらう感じがする。


少数民族の人々が自然栽培している「杏蜜香」は着香していなくてもアールグレイ/ジャスミンのような花やかさがあり、山奥に自生している野生の茶木の葉を紅茶にした「野生紅」には飲んでコトっと眠りに落ちるように茶酔いする。木の芽だけで淹れる「野生白芽」はほとんど青臭い水だが、タラノメの天ぷらとかと合わせて酒のように飲みたい。またこの方は、無肥料で放置され細々と自力で育った白樺みたいに白茶けた茶木の芽からも「白樹紅茶」という茶を作っている。これにははまりそうだ。花粉か香木かという甘い残り香、淹れた水まで清浄化するような滋養感を感じる。
烏龍やダージリンほど高価ではなくとも、和紅茶と同じくらいには値はする。でも自分にとって和紅茶より高くない感じがするから、雲南紅茶を常飲することになるかもな。


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【日本昔ばなし】の全話の風景を巡って飛び回っているというドローンの夢。



10月16日


イタリアの桜からとった蜂蜜というのを手に入れたが、スーッと舌に吸い込まれる涼しい甘み、目の前が薄紫になるくらい旨い。どちらかというと藤の花を思う。
「やまなみ一望千里」という和紅茶に入れてみたが、もともと桜の葉のような香りの茶葉なので、感動的なほどマッチした。この組み合わせは忘れない。



10月17日

夢。母と妹と三人で観光旅行をしている。一部分だけが古都だが、いたって普通の地方の町。
黒色の木製の「手」を私は持って歩いている。途中で購入したようだ。妹はそれを指輪などのディスプレイスタンドと思っているようだが、手首の金具やリアルさからして義手だと私は思っている。飴色の光沢を纏って重みのある立派な義手だ。


路地の風景などを写真に撮って歩きたいので、私は束の間二人と別れ、うろつく。
古い家並の合間の路地を行く。中央に、石蓋のある排水路が通っている。
その石蓋を踏みながら伝っていくと、ふと、その蓋の一つの穴から上にむかって、はさみ棒のようなものがツンツンと宙を掴みながら突き出ているのを見る。少しギョッとし、なんだろう…と不思議な気分で立ち止まってそれを見守る。
すると、今度はその穴から人間の白い手がゆっくり出てきて、ヒョコヒョコとはさみ棒を虚しく上に突き上げている。
全身が竦んだまま私はしばらく動けず、妙に冷静にそれを見つめようとした。どう見ても、生々しい人の手である。そこを踏み越えてはとても行けない…と判断した途端、冷汗が出て、震えがきて、咄嗟に持っていた「義手」をその手にむかって投げ、背を向けて逃げた。



恐怖を処理できなくて、母にも妹にも言えず、何事もなかったように合流する。
町外れのスーパーのスタンドでタピオカを食べたがる妹に付き合いながら、まだ自分は茫然としている。妹が、買った義手を見せて、と言ってくる。咄嗟に「ごめん何処かに落とした」と嘘をつく。さっき人の手に向かって投げてきたのだ。
妹はなぜかしつこく、あれは良いアクセサリーハンドだったのに、と惜しむ。私の携帯の写メを見たがるので何故かと聞くと「義手が途中まで画面の隅に入って映っているはずで、それがなくなったところまでみれば、拾いに行けるはずだ」という。
私は恐怖で身体を震わせながら拒否する。というよりも何よりも、自分には妹などいないことを思い出し始め、目の前のショートカットの女性が誰なのか、にも恐怖している。母も全く存在感がない。


目覚めて今もまだ身体に力が入らず、全ての物音にビクついている。具合が悪い。
あまりこういう怖さの夢を見ないので、不可解を引きずっている。



10月18日

ここのところの疲れ、体の気だるさ…朝目覚めたらすでに昼だった。

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市役所の帰り道。民家の敷地にある、トタン打ちつけられ古びた木造の小工場に、ふと目を奪われた。
直径二メートル弱の木製の大車輪が、ちいさな工場の部屋の中で駆動しているのである。「水車小屋?」と思ったが、水はない。硝子戸越しに、老婦人がひとり作業しているのが見える。夫が物怖じもせず、「ごめんください、あのー、何を作っているんですか?」と戸を開けて、訪ねた。老婦人が出て来て「針金」と言った。よく見ると脇の民家の縁の下に緑の針金が30センチほどの長さに切って並べてある。
「造花の茎の部分なの」とまた老婦人が言った。珍しいですねと夫が言うと、まあ珍しくもないんだけどね…と笑っていた。私が立体作品作るときに使う造花用針金。貴重な現場を垣間見た。大車輪はどういう工程に役立つのか、はわからなかった。

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なかなかハードなブチ具合のブチ猫を見た。現代美術感というか、アブストラクト感があった。睨まれた。
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10月19日

ここのところ、いくつかの中国茶の茶房に足を運んでいる。中国や台湾の様々な茶葉が棚の缶の数々に収まり、ちいさなカウンターや机で店主が中国式で淹れる茶を試飲できる。
今迄経験したことのない異空間だ。いっそ喫茶店になっているのなら普通だが、そうではなく店奥の小さな机にチョンと半座りで向かい、何煎も飲むことにひたすら費やす茶飲み時間を、初対面の店主とぎこちなく対峙しながら過ごす緊張感。
お洒落なホワイトキューブのギャラリストみたいな人、茶に磨かれ茶に洗われたような佇まいの中国女性、アジアの奥地に幻の茶葉を探索しに行くノマド的変人(失礼)な不思議な男性…色々な人が茶を淹れてくれた。


先日行った雑居ビルの簡素な事務所みたいなS茶房では、初見で緊張している私の横に三人の女性先客が座ってたむろ。これから何時間そこでゆっくり評茶しながら喋くって過ごすのだろう。
一人の女性は自分の家にある茶葉のことを、ペットにそう呼ばうように「うちのコ」と言っており、「紅茶なんかだと酸ちゃんにヤラれちゃうコもいる」と。酸ちゃん…とてもその領域には、あたし行けないわ、と私は黙って聞いている。しかし、茶舌というか茶鼻の肥えた人々の話を聞いていると、中国・台湾茶はじつに奥深い世界だということもわかる。様々な産地が話に出てくるから、旅をしている気持ちにさせられる。


10月21日

秋雨が降ると聴きたくなる音楽があるが、長いことCD棚の奥からわざわざ引っ張りだしはしなかった。しかし暗い雨の今日、数年振りに聴いてみた。
【ブルガリアン・ポリフォニー1】。ブルガリアの民謡の女性混声合唱のCDだ。
聴いているうちに学生時代の、しんと冷たいアトリエの空気まで蘇る。
初めてヨーロッパを旅したのは大学院だった。ブルガリアなどにはさすがに行かなかったものの、アジアとは全く違う欧州風景の記憶や欧州民族音楽の断片を繋ぎ合せ、妄想のなかにつくりあげた東欧中欧に憧れていた。当時火薬庫と言われ複雑な民族問題に緊張漂っていたバルカン半島諸国や旧共産圏諸国について、本を読んだり、映画や小説を探していた。
なるべくして今の世界情勢になったとも思うし....いや、しかしこうまでなってしまうとは思ってはいなかった。


いかにもトライバル風の現代的な女性歌唱(地声アジア風や裏声ケルト風)は、流行っていてもあまり好きにはなれず、聴く気はしなかった。耳触りな感じがした。
しかし「本場」の民謡の歌唱の迫力は、それらとは違う、と感じた。不協和音が万華鏡のように変容していく曲の深み、掻き立てられるような民族楽器の速度、民族が衝突しあう風土の根深い血脈の匂い…本物の深みを、ブルガリア合唱には感じていた。たんなる土着パワーの風味ではなく、ズタズタになりながらも繋がり続ける歴史への、寂寥や絶望をも孕んでいるのだ。


暗い曲調であればあるほど、自分の「故郷」である無機質な東京郊外の団地群を妙に思い出すのだった。人が大勢暮らしていた頃も、どこか寂しい風景だった団地。旧共産圏の末期の「ローカル臭を帯びた画一性」に通じるものがあって、その後写真で見るそのような国の風景と団地が重なっていったのだろう。はじめはユートピアとして計画されたはずの「人工的な村」の哀愁というか。
一度は忘れ果てていたが、旧共産圏の国々に行くことをまだ諦めていない自分を、ブルガリア合唱を聴きつつあらためて感じた。



10月22日

台風の激しい雨音の合間を縫ってラジオから低く切れ切れに漏れてくる唄、【小さな木の実】がせつなかった。

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10月25日

モノにも機会にも恵まれ過ぎ、「お腹いっぱいだ、まだ食べさせられるの?」というのが今の日本人なんだなあとつくづく思う。どんな経験でもハングリーな状態でない限り、身のある経験にはならないんだろう。次から次に他から与えられる経験をこなす毎日に疲れてしまうのだろう。で、経験に際して必要な「知恵」を絞り出す力が退化するのだ。我が身のこともまわりのことも含め、こういう毎日はなんだかなあ…と悶々とする。


10月25日

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ベトナム・ホーチミンの大学から、ベトナムシルク画の先生と学生たちが、交換授業のために研究室に来ている。クールで物静かだが印象的な佇まいの、若い女の先生。木枠にベトナム独特の繊維感のある絹を張り、水彩絵具を染み込ませるようにして描く。中国や日本の絹本とは仕上がりの透過性がかなり違う。うちの院生たちにはヒントを与える技法になりそうだ。
時を同じくして、カンボジアからも青年アーティスト6人が来訪。1日だけだが、ベトナムチームとともに芸大を見学して回る。
日本人の笠原さんという女性が単身カンボジアに渡り、たった一人で開いた子供のための小さな絵画教室。学校教育を受けられない、戦禍と貧困にあえぐ土地の子供たちに、美術を教えている。表現を通して学ぶものは技術だけではなく人生を切り開く術であり、人間本来の権利と尊厳であり、本当の意味での自由なのだろう。
展覧会のため来日した青年アーティストたちは、その小さな絵画学校から巣立ち画家になった人々だ。



部屋を覗いても学生の姿も殆ど無く、数ヶ月ずっと春休みの倉庫のように荒んだ油画学部生のアトリエの多くを彼らに見せてまわることは、教員として責任も感じ、辛いことだった。「学びたい子には学ぶ場がなく、こんな大きな教育のための建物や自由なはずの現場には、学生がほとんどいない…」と笑いながら言う笠原さんの言葉が胸に突き刺さり、俯くしかない。
油画科とは全く違い、朝から活気と緊張感のある彫刻科を見学させてもらい、ようやく芸大を見学してもらう意味も出来たようだった。昨日は工芸、日本画も見学したが、どの科もきちんと統率の取れた教育の現場だった。我が身と我が科に渦巻く思いで、どっと重い胃を引きずりつつ歩く。
研究室に帰ると技材実習室ではうちの助手がきびきびと三年生に作業をさせていて、救われる。私には教えられるような特殊技術もないのが情けないが、この研究室は大事にしていかないと。



カンボジア人スタッフの通訳の男性が、現地シェムリアップで様々な色合いの土を収集してくれると言う。三月にカンボジアで行う子供たちのための授業のイメージが一気に固まって来た。皆、初めて会ったような感じがせず、ずっと前からの知り合いのような気がししたのが不思議だった。
日本の石を砕いた顔料と、現地の土を使い、1から手で絵具を作る。植物性染料の専門家も近しいらしく、そういう色材も実験できるかもしれない。楽しみだ。


10月26日

都会というか「社会の中央」で生きているつもりの人間は、本当の意味での「独白力」が落ちてゆくのではないかと思う。自分のこの生き辛さも「独白」の時間の消滅が原因だろう。単なる言葉数やお喋り力は無駄に使っているのに。
珠洲や小豆島に居た人々が言葉でも言葉外でも溢れださせていた、その人以外のなんびとのものでもない人生の時間。そういうものを、じっと思い出している。



10月27日

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ベトナム・ホーチミン市美大Nep先生によるシルク画ゼミが終わる。さすが技材の子というか、みな短い限られた時間でも器用に初めての技法に取り組んだ。それでもまだシルク画特有のテクスチュアとは違うようで、Nep先生による直しが入る。ベトナムシルク画は、布に色を染めつけるように塗るのが特徴。水彩絵具の滲みやムラの表情に味があっても、それでは顔料分だけが浮いてしまう。なんども水のついた刷毛で洗う作業を必要とする。均され透過感が出た絹の表面は描画された絵というよりプリントされたものにさえ見える。
岩絵具の盛り上げ、ざらつきを表情と読取る日本画の絹本画と、材料は似ながらも逆方向の考え方である。
実習後両校の学生たちとNep先生はタロットをしたり、庭に出たりして交流している。総指揮としてあちこち走り回っていても、結局私が最もぎこちない交流しかできなかった。
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くしゃっとしたオカッパのNep先生の、寡黙な佇まいには非常に惹かれた。仕事ぶりも言葉の選び方からも、かなり職人肌の人という感じがした。私より十は歳下だが落ち着いた貫禄があった。しかしこちらの英語が拙くて互いに意思疎通が出来ず気まずいような空気を常に与えてしまった。
私は友達が少なく特に群れるような女友達は殆どいなかったが、何人か信頼できる一対一の関係の友はいた。もし彼女と言語が同じで歳が近かったら、多分馬があっていたような気がする。だから意思疎通に失敗したのが残念だった。何か圧迫を与えてばかりいたのだろう。そういう自分が辛い。


工場見学に向かう電車でも殆ど会話が出来ず黙っていたが、ふと東武東上線の車窓の景色にをみていた彼女が「この辺は田舎なのか」と尋ねてきた。そこそこ田舎、東京の隣の県、と答えると、日本語のような感じで「ふーん」と頷いていた。
朝霞台駅に早く着きすぎ私は朝食もとっていなかったので喫茶店に入ろうと誘ったが、「15分くらいこの辺をさんぽする。写真をとってくる」と学生を連れて歩き出した。
15分後に遠くからゆっくり歩いて戻ってくる彼女の顔が驚くほどノンビリ和んでいた。「この町すき?」と聞くとYESとはっきり嬉しそうに答えた。物凄く普通のローカルな駅前だが。
自由時間の過ごし方も大きな町に行きたがるより、寺など見ながらぷらぷら歩きたい、という感じだったようだ。多分気の合うはずの人だったろう。


10月28日

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カンボジア・シェムリアップに笠原知子さんが開いた小さな絵画学校、その名もSmall Art School。国の情勢や貧困のなか夢を持っていてもなかなか絵を学ぶことができなかった子供達に門戸を開き、自由に発想し手を動かすことへの夢を繋ぐ場所。その学校の子供達の絵画展が銀座で開催され、駆け込みで観に行けた。
先日芸大に来てもらった青年画家たちがみな揃っていて、あ!先生だ!と暖かく迎えてくれた。各々が家庭事情で苦学し、13歳から独学で日本語を学ぶ人、独自に中国画を模写し技術を得た人、英語学科やエンジニアの学部で学ぶ人、大学を中退し家業を手伝っている人など様々だ。


小さい子たちの絵はカラフルでのびのびと素晴らしい。が、青年画家たちがそれぞれの気質を大事に温めながら描く繊細なカンボジア文化の世界観に、とても興味を惹かれる。夢の中の光のような、螺鈿細工の虹色のような、不思議な色彩がどこかに入り混じる。モチーフはカンボジアらしい蓮や像などを描くものが多いが、自分らしい工夫でイメージを編みだそうとしている。


頭に布を巻いた印象的な風貌のハイ・チューン君は英語が堪能で、私の絵について話してくれた。ネットで見てくれたのだろうか?私の英語力がないので朧にしかわからないのだがだいたいこんなことを言ってくれていたと思う。
「あなたの絵は本当に繊細ですね。そしてとても静かだ。喧騒はあるけどそれとは別の違う場所で、とても集中しているのがわかる。その静けさに幸せを感じる」
なんだかじんとしてしまい、ありがとうありがとうと礼を重ねてしまう。中々英語に出来ずに、私の大切なものは…私が大切にしているのは…と口ごもり、「solitude…かな」とやっと言うと深くうなづき、わかります、と言ってくれた。彼は25歳、しかし自分よりずっと大人に思えた。


一目で惹かれたのはソクペアックさんという女性の水彩画。非常に手の込んだ味わいのある絵だ。ハイ・チューン君が「最初描いた蓮をもう一度明るい別の色で部分的に描き起こし、暗い色彩の帯も重ねて、複雑にしていったようです」と説明してくれる。
私はそのソクペアックさんの水彩画とハイ・チューン君の水彩切絵を購入した。彼の切絵は象についての物語のように無数の違う絵柄の連作になっていて、集めたかった。本にしたら面白いだろう。
最終日の終わり際だったので、購入を申し込み、そのまま作家本人たちから作品を受け取り、持ち帰ることができた。


あまり会話を交わさずとも人懐こさと包容力を感じさせる彼らの前では、私も素直になれる気がした。一緒に写真をとり、また二月にシェムリアップでね、と別れた。


いま、ソクペアックの蓮の絵を、御守りのようにして机に立てかけつつ自分の絵を描いているが、ジワジワと彼女の絵の良さが感覚に響いてくる。遠くから見た時と近くから見た時の印象が違う。複雑なタペストリーのような色彩のレイヤー。一筆一筆吟味しながら色を置いている楽しさがつたわってくる。自然と自分の制作も久しぶりに乗れるような気がする。しばらく側に置いて制作しようと思う。


10月30日

日曜は雨の中、研究室でワークショップ。指導は助手と学生たちによる。私は、受講者の子供の親御さんのお相手をする役目を…。都美術館主催のプログラムなのだが、そのスタッフのなかに、私の小学校時代の図工担当のS先生がいらした。学校を退任されたあとこの活動に参加なさっているという。先生は私が今回ここにいることを知っていらして、その後の小学校校舎解体の際のDVDを持ってきてくださった。
驚きの再会も、仕事に紛れてしまい充分に堪能出来なかったが、またお会いすることを約束した。


当時は「図工」という呼び方で授業を呼んではいたが、S先生は自分にとって最初の「美術」のイメージを与えた女性でもある。ほかの大人は12色基本セットの色彩世界に生きていてもS先生は60色セットの色彩世界にいるみたいな、うまく言い表せないがそういう存在だった。
30年以上お会いしていなかった。小学校時代の先生は皆いい先生だったのだが、自分の行い含め同級にもあまりいい記憶がないので母校からも自然足が遠のいてしまったのだ。
懐かしいというより、時が伸び縮みして不思議な時空同士が急に繋がるような不思議さがあった。


:::


あの小学校の図工室の匂いや中庭の落葉の堆積の香りを思い出している。庭の見える窓際の棚、数十色揃ったラシャ紙やトーナルカラーのような色紙の引き出しを開けてはいちいち色味を確認するのが好きだった。あの紙の匂いも独特だった。今もトーナルカラーが好きで、嗅いでは記憶を呼び起こす。
森の中の学校だったので、低学年の低い背丈からすると、落葉に埋もれる時期には狭い中庭が謎の迷宮空間のように思えた。


音楽のI先生は男の先生で、厳しいがユーモアがあり、なかなか強烈な個性を持っていた記憶がある。ただ闇雲に笛を吹かせたりするのではなく、音楽はエモーショナルなものだということを、彼を見ているだけでなんとなく理解した。器楽合奏の指揮など物凄く上手で、奏でる、ということを理解した。
I先生で記憶に残ることはもう一つ、卒業の時に頼んだ先生方からの寄せ書きに書いてくれた言葉だ。
「かくし味のきいた女の子になってください」
なーんていい事言うんだ、カッコイイな、と六年生の私は痺れていた。
今の時代にはなかなか難しい言葉かもな。でもこの言葉にフッと今でも支えらることがある。大人の機微のなかに子供も一緒に存在する、それが自然な教育なんじゃないか、自分の経験を振りかえって思ったりする。


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郵便受からチラシを取り出していたら、ふと一枚の不動産チラシが気になった。赤と青のズレ。記憶の底の「絵が飛び出す!3D」などの言葉とともに少年雑誌のふろくの赤青印刷漫画など浮かんでくる。
「…。」としばらくその場でポヤッとし、一応郵便受のなかに「赤と青のセロハンはった3Dメガネ」もサービスで入っていないか確認するが、無い。チラシの裏をみたら印刷はあまりズレておらず、単に赤と青のインクで刷りたかっただけらしい。なんだ、とすこしガッカリする。でも3Dメガネで見たらこの間取り図たちは立体的に飛び出すに違いない…


10月31日

静かで、優しい友達が欲しい。それは高望みなのだろうか。

by meo-flowerless | 2017-10-02 00:56 | 日記